読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

正論を語る、強くて弱い人たち

平気な顔で正論を語る人がいる。 しかし、やがてその正論は自らに牙を向けることになる。

「きみは〜をしたから、〜されて当然だ」
「〜できないのなら、〜するべきではない」
「〜こそが正義であって、〜よりも優先されるべきだ」

ここでいう正論とは、ある特定の社会的な制度や尺度を指す。 例えばそれは、法律であったり、仕事であったり、暗黙の社会的ルールでもある。

価値観が親しい間柄ほど、気を抜くと正論をかざしてしまいかねない。 数年前の自分はまさにこの罠に嵌り、親しい友人を傷つけてしまった。

「〜したいんでしょ?だったら今から〜すべきなんじゃない?」

正論をよく観察すると、前提として特定の権威が存在していることに気がつく。 先ほど、法律や社会的ルールを例として用いた制度や尺度の「その先にあるもの」が権威である。 (当時の自分は大学院生で、研究成果こそが価値=権威として捉えていた)

正論を語るのはとても簡単な作業である。 無思考に、一切の想像力も発揮することもなく、淡々と事実をつなぎ合わせるだけでよい。 そこには思いやりや、人間らしさが入り込む余地はない。

また、安易に正論を語るという行為には権威主義的なパーソナリティが見え隠れする。 正論を語ることは、程度の強弱はあれど、「権威を権威たらしめるある特定の尺度」を相手に押し付けることに他ならない。

話は変わって、自分は現在社会人3年目を迎えようとしている。 そしてこれまでの2年間を振り返ってみて、またしても正論の罠に陥っていることに気がついた。

冒頭で書いたとおり、正論を自分自身に向けていたのである。 仕事で成功すること、成果を上げることを権威に仕立てあげ、自らに正論を振りかざしていた。

「成功したいんだろ?だったら無駄な時間を過ごすな。価値がある時間にしろ」

ただし、これは一概に悪いとは言えないと思っている。 なぜなら、正論によって劣等感を煽り、成長のバネとすることができたからだ。

しかし、この状況がいつまでも続けられるとも思っていない。 思いやりや優しさ、もっと大きな言葉で言えば「人間らしさ」が削り取られているのを強く感じる。

社会人3年目を迎える節目、自分自身をニュートラルに立て直して、自分が愛せす自分になるべく精進していきたい。

(あとがき) さきほど、AmazonFireTVで山田孝之主演の「凶悪」を観賞した。 映画では、保険金目的でいくつもの老人殺害を企てる首謀者とその実行者、 そして彼らを追う雑誌記者の3名を中心にして物語が展開される。

人を殺して金銭的利益を得る犯人に対して、主人公はいつの間にか異様なまでの憎しみをいだくようになる。 やがて「死んだ人間の魂の弔い」を官軍旗にかかげ、今を生きている妻を蔑ろにするようになる。 まさしくマチズム、権威主義的パーソナリティが垣間見えた瞬間だった。