与えること、まずはそれから。

与えることは、自分と世界との接点をつくる大切な営みです。
与えることによって、自分で自分自身の存在を感じることができます。

目まぐるしく過ぎて行く日常の中で、我々はときとして自分と世界との境界を見誤ってしまいます。
「どうしてあなたは○○しないの?■■すべきだよ」
「△△が忙しくて●●してる時間がないんだ」

自我が肥大化して、他者を思いやることができなくなってしまうこともあります。
あるいは逆に、世界に圧倒されて自分自身をひどく矮小化してしまうこともあります。
そしていずれの場合でも、我々の心には大きな負担がかかります。

他者に自分を重ねすぎて、思い通りにいかないと悲しんだり、怒ったりして感情に突き動かされることもあります。
また、自分ではこの状況をどうにもできないと自信喪失し、途方も無い不安や孤独感に襲われることもあります。

だからこそ、我々は自分と世界との境界に関して注意を向けなければいけません。
そしてその一助となるのが「与えること」なのです。
我々は与えることによって世界と能動的に向き合うことができます。

一般に二者の関係においては、一者が能動的、もう片方が受動的であると見ることができます。
自分と世界との境界のバランスが崩れている状態は、別の見方をすれば、我々は受動的になりすぎているのです。

自分を重ねすぎた他者がどのように行動するかによって影響”される”
自身の力ではどうにもできないと感じる世界によって圧倒”される”
「自分と世界との境界を見誤っている状況」を説明するとき、その多くは受動態で表現されます。

物体、時間、存在、あらゆるものに対して「与える」という動詞を使うことができます。
加えて「与える」ことは暗に与えられる側を想定しています。「自分が、世界に、〜を、与える」という具合に。
言葉あそびではありません。与えるという行為を実行するとき、そこには必ず「誰に」と「何を」が存在しているのです。
そして「今日自分が何をしたのか」と振り返るとき、同時に「誰に」と「何を」の存在が頭に浮かんできます。

与えるという行為によって、我々は能動的に世界と関わることができるようになります。
与えるという行為のたびに、我々は自分自身を認知できるのです。
言い換えれば、自分と世界との境界をニュートラルな状態に戻すことができるのです。

そのモノサシは誰のもの?社会的証明という諸刃の剣

あなたは米国首相の入国規制令に賛成ですか?

人がある物事に対して肯定的(否定的)な態度をとるとき、その理由としては以下の2つが挙げられます。

  • ①自らが肯定的(否定的)な印象・考えを持っている場合
  • ②社会通念として否定的(肯定的)な態度をとらないほうが懸命と考えられる場合

①は説明の必要などありません。肯定的に考えているのだから、肯定的な態度を示しているだけです。 ②は自身が所属する「コミュニティにおける常識」から尤もらしい態度をとっている場合です。 つまり、「コミュニティの大半が『良し』とするのだから、きっとそれが『良い』のだろう」と価値判断(モノサシ)を代替しているのです。 名著「影響力の武器」では②のような状況を指して「社会的証明」として紹介しています。

今日の情報化社会において、「社会的証明」は大変便利な手段です。 不確かな状況においてもなお、我々は周囲の判断を参考にすることで大まかな方向性を掴むことができるのです。 ただし注意しなければならないのは、ときとして「社会的証明」は我々の平衡感覚を狂わせることがあるということです。

例えば冒頭の入国規制のように、(少なくとも日本人の大多数に限っては)自分とかけ離れたトピックに関して他から判断基準を借用したところでさほど問題になることはありません。 ところが、個人の人格と密接に結びつく話題に関して「社会的証明」を適用し、たとえ一時的だとしても他者のモノサシを借用することは、自己アイデンティティを否定することにも繋がりかねません。

次の問いに対して、あなたはどう考えますか?

あなたは善い人間ですか?あなたは悪い人間ですか?

「友人にはよく優しい人だと言われるし、優しい人間は概して善い人間だから、私は善い人間だ」 例示としてはお粗末かもしれませんが、これに類する思考をしたのであれば危険サインです。 これはまさに「社会的証明」を自己認識に適用したケースに他なりません。 自分の外側に存在するモノサシを使って、自己認識を形成しているのです。

「私はこの世界の中心なんだから自分は善い人間にきまっている」 分かりやすいように、こちらもあえて極端な例を引き合いに出しました。 この例のように、自分のモノサシを使って自己認識を規定することができる人は、そうでない人と比べて精神的健康に恵まれているかもしれません。 自らに外在するモノサシでない以上は、誰かに押し付けられることもなければ、意志と反して変化することもないからです。

「影響力の武器」では、「『社会的証明』は不確実な状況おいてより強く作用する」と述べられています。 未経験な領域でのできごとや、不完全な情報しか得られていないような状況では、我々はついつい周囲の様子を伺い「社会的証明」を適用しようとしてしまうのです。 もしかしたら、入社間もない新人社員が精神に不調をきたしてしまう要因の一つも、ここにあるのかもしれません。

毎日精一杯働いても仕事がなかなか終わらず、残業ばかりの日々を過ごす一年目の社会人を考えてみます。 彼以外の入社同期は、3人とも毎日きちんと仕事をこなして定時に退社を済ませています。 「社会的証明」の罠に嵌ったこの新卒社員は、例えどれほど違和感があっても、例えどれほど不条理を感じていても、おそらく声を上げることはないでしょう。 「社会的証明」によって、定時であがる他の同期3人こそ「正常」であって、自分は「異常」であると示されているからです。

程度の差はあれど、我々の多くは人生の節々においてこのような状況をしばしば体験してきているはずです。 幸い、この状態はしばらくすれば自然と解消されます。 環境に慣れるにつれて不確実性が少なくなり、一方で自らの考えが深まり、「社会的証明」に頼る必要がなくなるからです。

とはいえ状況を楽観視してばかりもいられません。 なぜなら「社会的証明」は多くの場合で無意識的に利用されるからです。 「社会的証明」に頼ってしまったときには。「何に対して社会的証明を適用したのか」という部分に注意を払うことで、絶えず平衡感覚を失わないようにしなければならないのです。

社会的証明=借り物のモノサシを盲信して自己アイデンティティを否定しつづければ、やがて自我は弱まり精神は衰弱してしまいます。 一方で、自分のモノサシを自分の外側世界に押し付けてばかりいては、社会不適合者のレッテルを貼られてしまうこともあるかもしれません。

孤独と感性と理性

どのような瞬間に孤独を感じますか?
あなたが今感じている孤独は、ほんとうは自分の中に生じた感情を蔑ろにしているだけなのではないですか?

孤独を感じるとき

忙しくて苦しい、あるいは何かを失って悲しいなど、人は不幸な感情に晒されたときにふと強い孤独を感じることがあります。
対して、幸福な状態、つまり何かに熱中しているときや満ち足りているときに孤独を感じるという人は聞いたことがありません。

幸福な状態でも、誰かと幸せを分かち合いたい(のに、そうできない)と思ってしまうことで孤独を感じるという人もあるかもしれません。
仮に分かち合えないことが原因で孤独を感じているのだとすれば、それは実際には対象の出来事自体がその人にとって本当の意味での幸福ではないのでしょう。
なぜなら、その人は少なくとも、対象の出来事よりも「分かち合える人間関係」に対して幸福を感じているからです。

受け止めれば、何てことはない

冷たい風が吹く冬の日には、不快を感じて反射的に肩を縮め、思わず「寒い」「早く中に入りたい」と口にしてしまいます。
しかし、ひとたび反射的であることを止め、意識的に「『寒さ』の存在」を捉えてしまえば、先ほどまで感じていた「不快」は消え去ります。 むしろ、寒さが肌を刺す感覚から生きている喜びを感じることだってできます。

「孤独と不幸」も「不快と寒さ」の関係と同じように考えることはできないでしょうか。

人が孤独だと感じるとき、その後ろ側には孤独を感じる引き金となった何か不幸な出来事の存在を疑ってみます。
原因となった出来事を意識的に受け止めることができれば、「不快」同様に「孤独」もすうっと消えてしまうものです。

自分と向き合えないと余計に孤独を強く感じる

好ましくない出来事を意識的に受け止めることは、そう簡単にできることではありません。 多くの人は見てみぬフリをしてやり過ごしているのではないでしょうか。

人間の誇るべき適応能力によって、年をとるにつれ自分を騙す術もうまくなります。
大人へと成長する中で、いつからか感性は理性によってネグレクトされるようになります。
内面の二者(感性と理性)の間でさえ離別しているのだから、孤独を余計に強く感じてしまっても不思議ではありません。

ここで重要なのは、理性=自らの意志ひとつで、孤独という感情を弱めも強めもできてしまうということです。

正論を語る、強くて弱い人たち

平気な顔で正論を語る人がいる。 しかし、やがてその正論は自らに牙を向けることになる。

「きみは〜をしたから、〜されて当然だ」
「〜できないのなら、〜するべきではない」
「〜こそが正義であって、〜よりも優先されるべきだ」

ここでいう正論とは、ある特定の社会的な制度や尺度を指す。 例えばそれは、法律であったり、仕事であったり、暗黙の社会的ルールでもある。

価値観が親しい間柄ほど、気を抜くと正論をかざしてしまいかねない。 数年前の自分はまさにこの罠に嵌り、親しい友人を傷つけてしまった。

「〜したいんでしょ?だったら今から〜すべきなんじゃない?」

正論をよく観察すると、前提として特定の権威が存在していることに気がつく。 先ほど、法律や社会的ルールを例として用いた制度や尺度の「その先にあるもの」が権威である。 (当時の自分は大学院生で、研究成果こそが価値=権威として捉えていた)

正論を語るのはとても簡単な作業である。 無思考に、一切の想像力も発揮することもなく、淡々と事実をつなぎ合わせるだけでよい。 そこには思いやりや、人間らしさが入り込む余地はない。

また、安易に正論を語るという行為には権威主義的なパーソナリティが見え隠れする。 正論を語ることは、程度の強弱はあれど、「権威を権威たらしめるある特定の尺度」を相手に押し付けることに他ならない。

話は変わって、自分は現在社会人3年目を迎えようとしている。 そしてこれまでの2年間を振り返ってみて、またしても正論の罠に陥っていることに気がついた。

冒頭で書いたとおり、正論を自分自身に向けていたのである。 仕事で成功すること、成果を上げることを権威に仕立てあげ、自らに正論を振りかざしていた。

「成功したいんだろ?だったら無駄な時間を過ごすな。価値がある時間にしろ」

ただし、これは一概に悪いとは言えないと思っている。 なぜなら、正論によって劣等感を煽り、成長のバネとすることができたからだ。

しかし、この状況がいつまでも続けられるとも思っていない。 思いやりや優しさ、もっと大きな言葉で言えば「人間らしさ」が削り取られているのを強く感じる。

社会人3年目を迎える節目、自分自身をニュートラルに立て直して、自分が愛せす自分になるべく精進していきたい。

(あとがき) さきほど、AmazonFireTVで山田孝之主演の「凶悪」を観賞した。 映画では、保険金目的でいくつもの老人殺害を企てる首謀者とその実行者、 そして彼らを追う雑誌記者の3名を中心にして物語が展開される。

人を殺して金銭的利益を得る犯人に対して、主人公はいつの間にか異様なまでの憎しみをいだくようになる。 やがて「死んだ人間の魂の弔い」を官軍旗にかかげ、今を生きている妻を蔑ろにするようになる。 まさしくマチズム、権威主義的パーソナリティが垣間見えた瞬間だった。

人生は何かを為すには短すぎるのでしょうか。

先日、26歳の誕生日を迎えました。 100歳まで生きると仮定して、僕はすでに人生の25%以上を消費してしまったわけです。

気づけば2017年も20日間が過ぎました。これは20/365≒5.4%が経過したことになります。 こうして数値化すると、人の一生はほんとうに限られているなと感じます。 体感時間はこれからさらに加速していくことでしょう。

「人生は何かを為すには短すぎるのでしょうか。」

ところで、この「何か」って何でしょうか。
きっとその「何か」を知ることができるのは、あるいはそれが「何か」だと言えるようになるのは、もっとずっと後に人生を振り返ってみたときなのかもしれません。

ある日突然に「何か」が達成されるのではなく、それまで積み上げてきたものが「何か」になるのだと考えています。
だからこそ、僕は今ここから「何か」をはじめなければいけません。

ということで、ブログのタイトルも変えて、またつらつらとぽつぽつと書き始めようと思います。
ちなみにブログタイトルはマザー・テレサが言ったとされる以下の名言から拝借いたしました。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

Dockerに頼らずにCentOS7でElixir開発環境を整備した話

はじめに

windowsであればバイナリが配布されているし、 macubuntuであればおもむろにbrew(apt-get)を打つだけで簡単にElixir開発環境が構築できる。
さらにFedora17以降ならばyumで同様に一発構築が可能。
しかしCentOS7では、リポジトリが登録されておらず(このあたり曖昧です)yumで環境構築ができない。

世の中には親切な人があふれていて、実はすでにdockerイメージを提供してくれている。

CentOS + Erlang + Elixir + PhoenixのDockerイメージで今日から始めるElixir on Phoenix入門

とはいえ、中身が把握できていないと不安な性分ゆえ、0から開発環境したい。
そこで、今回はしこしこ手動インストールでelixir開発環境構築をした際の備忘録。

大枠

  1. Erlang/OTPのインストール
    Erlang公式からソースコードをダウンロードしてconfiguire&make

  2. Elixirのインストール
    Elixir公式に記載されている方法にしたがってgithubからソースコードをダウンロードしてmake

1.Erlang/OTPのインストール

さっそくErlang公式からソースコードをダウンロードしてくる。
f:id:sat0yu:20150809190658p:plain
wgetなりcurlなりでダウンロードして展開

% wget http://www.erlang.org/download/otp_src_18.0.tar.gz
% tar xzf otp_src_18.0.tar.gz
% cd otp_src_18.0

早速configure&makeしたいところだけど、 先に依存関係だけ解決しておく。

% sudo yum -y install ncurses ncurses-devel openssl openssl-devel gcc-c++ unixODBC unixODBC-devel fop

準備ができたらconfigure

% ./configuire

すると、「wxがない」との指摘をうけるが、CUI開発しかしないので無視。

% sudo make
% sudo make install

無事インストールできた確認して次へ進む

% erl
Erlang/OTP 18 [erts-7.0] [source] [64-bit] [async-threads:10] [hipe] [kernel-poll:false]
Eshell V7.0 (abort with ^G)

2. Elixirのインストール

ソースコードからelixirをインストールする方法を公式が掲載してくれている。
githubからクローンしてきて、makeするだけの簡単な作業。 最後にパスを通すところだけ忘れずに。

f:id:sat0yu:20150809192114p:plain

任意のディレクトリ(あとでmvするので)にクローンしてmake

% git clone https://github.com/elixir-lang/elixir.git
% cd elixir
% make clean test

/home以下だと違和感があるのでそれなりの場所に配置&リンクを張る

% cd ..
% sudo mv elixir /usr/local/src
% ln -s /usr/local/src/elixir /usr/local/elixir

最後にシェルの設定ファイル(僕は.zshenv)に以下を記述してパスを通せば完了

¥#elixirへパスを通す
export PATH="$PATH:/usr/local/elixir:/usr/local/elixir/bin"

まとめ

環境構築を終えてから、どうしてdockerfileに書かなかったのか後悔

references:

ある日突然gitが使えなくなりました -> Xcode/iOSライセンスに同意したら直りました

いつもどおり,朝一番にgit fetchしようとしたら怒られました.

Agreeing to the Xcode/iOS license requires admin privileges, please re-run as root via sudo.

原因はXcode/iOSのライセンスに同意していないせいでした.
きっと自動アップデートでも走ったんでしょうか.

調べてみると同様の事例で困った人もいたみたいですね.
参考1: Mac OSX: can't start Git after updating Mac OS/XCode : JetBrains Support
参考2: Agreeing to the Xcode/iOS license... のエラーがでた時の対処法 - Qiita

解決策(以下の3つどれでもOK):

  1. $sudo xcrun cc
  2. $sudo xcodebuild -license
  3. GUIXcodeを起動してダイアログでagreeする

僕は1番の方法で解決しました.めでたしめでたし.